古賀選手が気になっています。
先日のひたちなかで行われた日立との試合を観戦していたのですが、ちょっと痛そうにしてたので、大丈夫かな?と思いました。

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その後、普通に試合に出続けていたので大事には至っておりませんが、シーズン始まってしまうとそうもいっていられません。チーム事情もあって大変ですが、出来るだけ無理をしないで頑張って貰いたいですね。

ところで、この数年、毎日のように陰惨な事件が多く、やれ北朝鮮のミサイルだの、正気の沙汰と思えない出来事が続き、今の日本が病んでいることを嫌でも実感します。

正直、この数日はブログ書くのが憂鬱でした。

恐らく、今の日本で幸せを存分に感じていらっしゃる方は少ないのではないか、そんな風に思います。
閉塞感といいましょうか、誰もが自分のことしか考えず、横のつながりが酷く希薄な社会になりました。

そんな中でも、人間は誰かに頼って生きて行こうというのですから、矛盾しています。

「人間は文明に頼ると病的になる」

これは白洲正子さんという方の言葉です。
今の世の中が、まさに当てはまるような気がします。
この方は白洲次郎さんの奥様としても有名ですが、世間では随筆家としても知られています。

で、旦那さんの白洲次郎さんはこの数年、NHKのドラマ等でも取り上げられ有名になりましたが、知らない人のために、今日はこの方のお話しをさせて頂きたいと思います。


実は、私が白洲次郎さんを知ったのは、かれこれ10年以上前。
夏のリフレッシュ休暇にて金沢へ旅行に行った時のことです。

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で、白洲次郎さんを知ったのは、現地でフラッと立ち寄った「白洲次郎と正子の世界展」
たしか、そんな催し物だったと思います。

当時の白洲家を復元したセットと、展示物に書かれていた白洲家の住所
「東京都町田市能ヶ谷町」

それは私がかつて住んでいた住所だったので驚きました。
その時まで白洲次郎のことを知らなかった私は運命的なものを感じ、興味を抱きました。

その白洲次郎さんの概略を記載すると、
「連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど、多くの日本企業の役員を歴任した」
とあります。

子供の頃は手の付けられない暴れん坊だったそうですが、身長が当時の男性にしては大きく、語学堪能。「日本一格好良い男」とも呼ばれていたそうです。

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白洲さんは、旧制第一神戸中学校を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに聴講生として留学。実際は勘当同然に放り出されたそうで、現地で車に没頭、7代目ストラフォード伯爵ロバート・セシル・“ロビン”・ビングと終生の友となり、いつもオイル塗れの姿から「オイリーボーイ」と呼ばれていたのだとか。

悪ガキは現地でも健在だったようです。

しかし、1928年、父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、日本へ帰国。1929年、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。その後、伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子さんと知り合って結婚。
英語が堪能だった次郎さんはセール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となる。この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂さん(のちの内閣総理大臣)と懇意になり、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。

これが白洲次郎さんの運命を大きく変えることとなります。

第二次世界大戦勃発の翌年の1940年、イギリスに精通し、吉田茂さんより日本の国情や世界情勢を知らされていた次郎さんは日本が食糧難になることを予見し、東京都町田市能ヶ谷町の古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業から一切離れ、農業に励む日々を送っていたとのこと。

しかし、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了により、世の中は大きく変化。外務大臣に就任した吉田茂さんの懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任。当時、日本を統治していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたそうです。

この当時の有名なエピソードとして、昭和天皇からGHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれています。

真意はともかく、大変気骨のある人物だったそうです。

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戦後は大変な時代でした。
今も尚、問題となっている日本国憲法の成立にも携わった人物として知られ、1946年、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQに拒否された際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されたそうです。GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲さんは2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとGHQに書簡を出し時間を得ようとしますが、これを拒否され、以後の交渉に当たったとのことでした。

当時の彼の主張として、「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)というものがあり、当時GHQからはその堪能な英語とともにGHQから大変煙たがられたそうです。

また、当時の日本の復興には貿易が必要不可欠とし、商工省の外局として設立された貿易庁の長官に就任します。汚職根絶などに辣腕を振るい、のち経済産業省を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と評されました。

一旦は政界を離れた次郎さんでしたが、再び吉田茂首相に手腕を買われます。
日本の自治回復を締結するサンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行。

あまり乗り気ではなかった白洲次郎さんの負けん気が土壇場で発揮されます。
吉田茂首相から頼まれ、不承不承原稿を確認したところ、その内容が、外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに激怒「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したのだそうです。

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結果、最終原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれ、堂々と日本語で読まれました。その様子を海外メディアは“吉田のトイレットペーパー”と報じたとのこと。

この時、吉田茂首相に請われ外務省顧問を務めるも、自分の役割は終わったと感じた白洲次郎さんは実業界に戻りました。

このあたりの引き際の良さ、自分の役割を終えると潔く身を引くあたりが「風の男」

以後、公社民営化の推進に加わり、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任。只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進し、自ら車を運転し現場へ積極的に足を踏み入れ、従業員から大層慕われたそうです。

また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川の水利権を巡り、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出したとのこと。

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今日の東北電力の礎を築いたそうです。

以後、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、三宅一生のショーにモデルとして出演。また、同時期には没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行うなど、晩年まで精力的だったそうです。

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そんな白洲次郎さんの引き際も潔く、娘さんに「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」と伝え、その数日後に逝去。自身の遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあったそうです。

白洲さんはただ気骨があるばかりではなく、冗談好きな人物としても知られ、当時「風見鶏」と言われた中曾根康弘首相が軽井沢ゴルフ倶楽部でプレイしている際、警護についていたSPが中曾根首相の姿を望遠鏡で追っていた際「よう、バードウォッチングかい」とからかったり、顔なじみだったコーヒー売り場の店員さんは、白洲の訃報を新聞記事で知り、初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」とのこと。

彼が生涯、口癖としたのはプリンシプル。日本語に直訳すると「原理。原則。根本」
後年、日本国憲法の成立を巡り、GHQと国家の板挟みに遭い、その心情をこう綴っている。

「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」

なんだか身に詰まされる言葉です。
それも、日本国憲法の成立の現場にいた人間だからこそ、余計重みがあります。


正直、こんな陰惨なご時世だからこそ、たまにはこの国が元々どんな国で、何を背負ってきたのか、考え直す必要があるのではないか、と思います。

バレーボールが誕生したのが1895年(明治28年)。日本に伝来したのは1913年(大正2年)のこと。日本の女子バレーが東京オリンピックで金メダルを獲得したのが1964年(昭和39年)ですから、この白洲次郎さんは、日本にバレーボールが伝来、発展を遂げる同じ時代を生きたことになります。

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明るく楽しくもいいですが、それも平和があってのこと。
それも先人たちの努力により培われたものであり、その平和を自分たちで台無しにするなど愚の骨頂であると思います。

例え嫌なことでも、ほっかむりしていては何も変わらないことを噛みしめ、たまには現実と対峙し、今の自分の生活や、恵まれている日常がどのように作られているのか、認識する必要があるのかもしれませんね。