今年の全日本や先日の欧州選手権で活躍した中国のシュ・ティ選手、アゼルバイジャンのラヒモワ選手。
現在の女子バレー界ではこの二人が桁外れなアタッカーとしては双璧かな、と思った。
二人とも上背があり、かつプレイが起用。
ブロックの上からアタックを打ってくる選手がフェイントやブロックアウトまでやられた日にはたまらない。
かつてキム・ヨンギョン選手のことを韓国では「100年に一人の天才」と評した。
実際、アタックのみならず、レシーブもよく、プレイも起用。
こうした選手の能力は桁外れだ。
天才と言うのは、どの世界にもいる。 だが、才能というものは何が転機となり、花開くか、わからない。
菅谷かおる選手がアタッカーからリベロに転身したり、インドアからビーチに転向したことで才能を開花させる例も珍しくない。
最近、ビーチに転向して結果が伴いはじめた二見梓選手が注目を浴びるようになった 。
勿論、本人の努力あってのことだが、世の中には、自分の転機をばねに、たった数回で世界を塗り替えてしまうことが稀にもある。
「彼」もまた、そう。
彼の名はクロフネと言った。
その名前も印象的なら
走りっぷりもまた、印象的。
アメリカ合衆国ケンタッキー州のニコラス・M・ロッツ氏による生産。
所謂「マル外」こと外国からの輸入馬。
まさに黒船襲来。
その名の由来もまた、彼の大物感。
翌年の2001年には日本ダービーががはじめて外国産馬にに開放される予定であり、馬主サイドは「開放初年度のダービーを勝って欲しい」という願いを込め、本馬を「クロフネ」と命名。
順調に出世したクロフネは年明け3歳で毎日杯を圧勝。
ただし、クロフネがダービーに出走するには条件があった。
GI・NHKマイルカップで2着までに入るか、京都新聞杯または青葉賞に勝利すること。
結果、クロフネはNHKマイルCを選択。 後方14番手から待機策をとると、最後の直線では馬群を縫うようにして抜け出しゴール前で半馬身差し切っての優勝を果たした。
そうして迎えた日本ダービー。 重馬場にもかかわらず、1000メートル通過は58秒4とダービー史上最速のペース。 第3コーナー過ぎからクロフネとダンツフレームが上位に進出していき最後の直線に入ったが、仕掛けを遅らせたジャングルポケットが抜け出しを図る両馬を一気にかわして優勝。クロフネは伸びあぐねて5着と敗れた。
松田調教師によれば、ダービーに向けての「手加減した調整」が裏目に出たとのこと。
もし、このままでクロフネが終わっていれば、単なる一流馬で終わっていた。
ところが、当時はまだ、外国産馬にとって規制が厳しい時代。 このことが彼の運命を大きく変える。
夏の休養を経たクロフネ陣営は、当年より外国産馬に2頭の出走枠が設けられた天皇賞(秋)を目標に調整。
神戸新聞杯から復帰するも、騎手との折り合いを欠き、3着に敗れる。
この敗戦により、天皇賞を回避せざるを得なくなったのだが、これが天祐となる。
陣営は翌年に予定されているダートGI競走・フェブラリーステークスが視野に入っていたことから、一度ダートを走らせようと、天皇賞前日に行われるGIII・武蔵野ステークスに出走することになった。
一般的に芝はスピード、ダート(砂)はパワーと言われる。実際、芝とダートでは砂に足を取られる分、同じ距離を走らせて1秒以上ダートが遅いのだが、彼にそんな常識は通用しなかった。
取った戦法も桁外れ。 レースでは第4コーナー手前で早くも先頭、直線の長い東京競馬場では自殺行為の展開に場内は大きくどよめく。
ところが先頭に立ったクロフネは、2着以下に対し「後は勝手にやっていろ」と言わんばかりに後続を突き放し、2着馬になんと9馬身差をつける大差勝ち。
その走破タイム1分33秒3は、クロフネ自身が出した芝のGI競走・NHKマイルCの勝ち時計にコンマ4秒に迫る破格のレコード。
一番驚いたのは出走させた松田調教師である。適正を試す意味合いこそあったものの、あまりに強すぎる勝ちっぷりに脱帽。
そこで次走もダートコースを選択。
迎えたのはダート馬日本ナンバーワンを決めるジャパンカップダート。
前走に比べてダート2100mと大幅に距離が延長され、相手の格も上がった。
しかし、彼にはそんなことはまるで関係なかった。
レースはまるで武蔵野SのVTRを見ているかのように、三角手前から進出し、4コーナーで先頭に立つ積極策。
幾ら何でも距離が長いと場内がどよめくが、そんな心配はなんのその。 長い直線でも後続を一気に突き放し、前年の覇者・ウイングアローに7馬身差をつけての圧勝。 勝ち時計2分5秒9は、前年に記録された2分7秒2を大幅に更新する破格のレコードであり、競馬での1.3秒は6馬身以上の圧勝に該当する。 2戦連続で日本レコードを塗り替える破格の勝ちっぷりに関係者は色めきだち、ダート世界一を決めるドバイワールドカップへの出場を示唆する。
天才・武豊騎手は勝利ジョッキーインタビューでそのことを振られると
興奮気味に「世界にこの馬より強い馬、いるんですか?」と高らかに宣言。
場内は大いに湧き、クロフネの世界一への期待は大きく膨らんだ。
ところが…。
前年のダービーでの反省を踏まえ、松田調教師はクロフネをめいちの仕上げにするために追い込むも、これが災いしサラブレッドの不治の病・屈腱炎を発症。
ドバイワールドカップへの遠征は取り止めとなり、クロフネはそのまま引退となった。
もし、天皇賞にそのまま出走していたら、クロフネは日本競馬の歴史に大きな足跡を刻むことなく、片隅に追いやられていたことだろう。
ダートに転向してたった2戦で見せつけたクロフネは伝説のダート最強馬として歴史にその名を刻んだ。
こんなことは極めて稀だが、それが事実である以上、夢を見るのも悪くない。
今芽が出なくても、自分の才能を信じたり、運命に身を任せてみるのも、時には必要なのかもしれない。
現在の女子バレー界ではこの二人が桁外れなアタッカーとしては双璧かな、と思った。
二人とも上背があり、かつプレイが起用。
ブロックの上からアタックを打ってくる選手がフェイントやブロックアウトまでやられた日にはたまらない。
かつてキム・ヨンギョン選手のことを韓国では「100年に一人の天才」と評した。
実際、アタックのみならず、レシーブもよく、プレイも起用。
こうした選手の能力は桁外れだ。
天才と言うのは、どの世界にもいる。 だが、才能というものは何が転機となり、花開くか、わからない。
菅谷かおる選手がアタッカーからリベロに転身したり、インドアからビーチに転向したことで才能を開花させる例も珍しくない。
最近、ビーチに転向して結果が伴いはじめた二見梓選手が注目を浴びるようになった 。
勿論、本人の努力あってのことだが、世の中には、自分の転機をばねに、たった数回で世界を塗り替えてしまうことが稀にもある。
「彼」もまた、そう。
彼の名はクロフネと言った。
その名前も印象的なら
走りっぷりもまた、印象的。
アメリカ合衆国ケンタッキー州のニコラス・M・ロッツ氏による生産。
所謂「マル外」こと外国からの輸入馬。
まさに黒船襲来。
その名の由来もまた、彼の大物感。
翌年の2001年には日本ダービーががはじめて外国産馬にに開放される予定であり、馬主サイドは「開放初年度のダービーを勝って欲しい」という願いを込め、本馬を「クロフネ」と命名。
順調に出世したクロフネは年明け3歳で毎日杯を圧勝。
ただし、クロフネがダービーに出走するには条件があった。
GI・NHKマイルカップで2着までに入るか、京都新聞杯または青葉賞に勝利すること。
結果、クロフネはNHKマイルCを選択。 後方14番手から待機策をとると、最後の直線では馬群を縫うようにして抜け出しゴール前で半馬身差し切っての優勝を果たした。
そうして迎えた日本ダービー。 重馬場にもかかわらず、1000メートル通過は58秒4とダービー史上最速のペース。 第3コーナー過ぎからクロフネとダンツフレームが上位に進出していき最後の直線に入ったが、仕掛けを遅らせたジャングルポケットが抜け出しを図る両馬を一気にかわして優勝。クロフネは伸びあぐねて5着と敗れた。
松田調教師によれば、ダービーに向けての「手加減した調整」が裏目に出たとのこと。
もし、このままでクロフネが終わっていれば、単なる一流馬で終わっていた。
ところが、当時はまだ、外国産馬にとって規制が厳しい時代。 このことが彼の運命を大きく変える。
夏の休養を経たクロフネ陣営は、当年より外国産馬に2頭の出走枠が設けられた天皇賞(秋)を目標に調整。
神戸新聞杯から復帰するも、騎手との折り合いを欠き、3着に敗れる。
この敗戦により、天皇賞を回避せざるを得なくなったのだが、これが天祐となる。
陣営は翌年に予定されているダートGI競走・フェブラリーステークスが視野に入っていたことから、一度ダートを走らせようと、天皇賞前日に行われるGIII・武蔵野ステークスに出走することになった。
一般的に芝はスピード、ダート(砂)はパワーと言われる。実際、芝とダートでは砂に足を取られる分、同じ距離を走らせて1秒以上ダートが遅いのだが、彼にそんな常識は通用しなかった。
取った戦法も桁外れ。 レースでは第4コーナー手前で早くも先頭、直線の長い東京競馬場では自殺行為の展開に場内は大きくどよめく。
ところが先頭に立ったクロフネは、2着以下に対し「後は勝手にやっていろ」と言わんばかりに後続を突き放し、2着馬になんと9馬身差をつける大差勝ち。
その走破タイム1分33秒3は、クロフネ自身が出した芝のGI競走・NHKマイルCの勝ち時計にコンマ4秒に迫る破格のレコード。
一番驚いたのは出走させた松田調教師である。適正を試す意味合いこそあったものの、あまりに強すぎる勝ちっぷりに脱帽。
そこで次走もダートコースを選択。
迎えたのはダート馬日本ナンバーワンを決めるジャパンカップダート。
前走に比べてダート2100mと大幅に距離が延長され、相手の格も上がった。
しかし、彼にはそんなことはまるで関係なかった。
レースはまるで武蔵野SのVTRを見ているかのように、三角手前から進出し、4コーナーで先頭に立つ積極策。
幾ら何でも距離が長いと場内がどよめくが、そんな心配はなんのその。 長い直線でも後続を一気に突き放し、前年の覇者・ウイングアローに7馬身差をつけての圧勝。 勝ち時計2分5秒9は、前年に記録された2分7秒2を大幅に更新する破格のレコードであり、競馬での1.3秒は6馬身以上の圧勝に該当する。 2戦連続で日本レコードを塗り替える破格の勝ちっぷりに関係者は色めきだち、ダート世界一を決めるドバイワールドカップへの出場を示唆する。
天才・武豊騎手は勝利ジョッキーインタビューでそのことを振られると
興奮気味に「世界にこの馬より強い馬、いるんですか?」と高らかに宣言。
場内は大いに湧き、クロフネの世界一への期待は大きく膨らんだ。
ところが…。
前年のダービーでの反省を踏まえ、松田調教師はクロフネをめいちの仕上げにするために追い込むも、これが災いしサラブレッドの不治の病・屈腱炎を発症。
ドバイワールドカップへの遠征は取り止めとなり、クロフネはそのまま引退となった。
もし、天皇賞にそのまま出走していたら、クロフネは日本競馬の歴史に大きな足跡を刻むことなく、片隅に追いやられていたことだろう。
ダートに転向してたった2戦で見せつけたクロフネは伝説のダート最強馬として歴史にその名を刻んだ。
こんなことは極めて稀だが、それが事実である以上、夢を見るのも悪くない。
今芽が出なくても、自分の才能を信じたり、運命に身を任せてみるのも、時には必要なのかもしれない。
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